秋風が簷を渡り、書斎を叩く。桂はひとり筆を執り、紙面に黙々と文字を連ねていた。沈思黙考の姿勢は、凛とした水面のごとく乱れを見せぬ。だが、その内側に潜む熱は、誰に見せるものでもない。
静謐を破ったのは、いつもの猫娘であった。白磁の肌、猫の耳を冠した娘は、無邪気な笑みと共に、空気の隙間を縫うように桂へと近づく。
「桂さま〜♡」
その声は、春の陽に融ける雪のように甘やかだ。無垢な微笑、しかしその身体は男の理性を破砕する、あまりに危険な曲線を隠さぬ。
「ここ、あたしの場所にしていいかニャ?」
そう言いながら、桂の膝元へすとんと腰を下ろす。天真爛漫とは、かくも罪深いものか。細い腰、張り詰めた胸元、ちらりと覗く白肌。娘は己の肉体の魔力を意識していない。いや、意識していないがゆえに、なお一層の脅威であった。
「……そこは、仕事の場だ。どきなさい」
声は低く抑えられている。しかしその胸中では、熱がじりじりと膨らみつつあった。
「いやニャ〜、ここは桂さまの匂いがして落ち着くニャア♡」
甘えた声に、桂の眉はかすかに寄る。視線を逸らそうとするも、視界の端には彼女の白肌が残像のように張り付いている。
(……これは試練だ)
理性を己の城とする桂は、自らの内に巣食う欲望の形を知っていた。いや、知っていながらも抗えぬ、それが人間の業というものだ。
女の身体は、ただの器ではない。揺れる尻、張り詰めた胸元、歩むたびに柔らかく撓う腰。男の目に映るそれは、単なる肉体ではなく、理性を試す刃であった。しかも、猫娘はそれを無自覚に振るう。
己が武器を知らずに振り回す者ほど、危うい存在はない。
(……わかっていないのか。いや、わざとなのか?)
桂の唇は固く結ばれ、汗がこめかみに滲む。視線はふと、彼女の花のような唇に落ちる。
(……やわらかそうだ)
一瞬の迷いが胸を灼き、桂ははっとして我に返る。
「……下がれ。今日は疲れた」
低い声は、裂帛の気迫であった。娘は「にゃふっ」と声をあげ、しかしその瞳はどこか満足げに笑っていた。好きな男の理性が揺らいだ刹那を、確かに見届けた笑み。
(……もしかして、効いてるのかニャン?)
猫娘の思惑を知らぬふりで、桂は拳を膝に当て、深く息を吐く。己が男であることを忘れたい——だが、忘れられぬ。夜の冷水は再び桂の肌を打ち、煩悩を沈める。
やがて、桂の元を訪ねてきたのは、蒙古の武将・火里火真であった。
鋭い眼光と苛烈な気性を併せ持つ男であり、桂と一度、拳を交えた縁もある。
火真は桂に惚れ込んでおり、その配下に尽きたいと願ったが、桂の一存で朱棣の教育係に任じられている。火真の眼光は鋭く、言葉は乾いた風のように響いた。
「蒙古は、すでに終わりだ。部族は分裂し、もはや女真と同じだ」
火真の声には乾いた響きがあった。己が背負う民族の黄昏を、あくまで他人事のように淡々と語る。
「……ああ。私もそれを予見し、高麗に帰順した」
桂の返事は短く、しかし言葉の奥に覚悟を滲ませる。
火真はひとつ笑い、杯を傾ける。
「して——貴殿の弟分、朱棣殿は貴殿が甘やかしたおかげで随分と腑抜けておるが」
桂は目を伏せる。
「……あの子は、生真面目なのだ。あなたの訓練で泣かされていると聞いた」
火真は杯を置き、声を潜める。
「泣くのは悪くない。泣いてなお立ち上がれるなら、それでいい。俺は素直に泣ける奴が好きだ」
視線が桂に向けられた。まるで、その言葉が桂にも向けられているように。桂は微かに頬を緩める。
「……あなたの言葉は荒削りだが、本質を突く。あの子には、あなたの厳しさが必要だ」
火真の目が笑う。
「だが、桂殿。貴殿の甘やかしも、あの子には必要だったと思うぞ。しかし、あの子の甘いもの好きは、貴殿のせいだ。甘いものばかり食わせやがって」
桂は小さく笑いを漏らす。
「……あれも、ひとつの癖だ。誰かに甘える癖。私が植え付けてしまったものだ」
火真は肩を揺らし、声を潜める。
「そうやって、無償の愛を分け与える貴殿自身も、誰かに甘えたいのではないか?」
桂は杯を持ち上げ、黙して答えず。長い沈黙が二人の間を覆う。だが、その沈黙にこそ、男たちの奇妙な共感があった。
やがて火真は腰を上げ、笑みを湛えて去る。
「俺は、あの弟を鍛え上げる。貴殿が甘やかす分、俺が叩き直す。——それが厳しくできぬ貴殿の望みでもあるだろう?」
桂は黙して頷いた。
そして夜更け、朱棣が「桂兄上〜!」と声を上げて書斎に現れる。無駄話を携え、幼い日の笑みをまだ残す青年。桂の書斎は、彼にとって安息の隠れ家であった。
「兄上、火真殿にまた鍛えられました……腕が痛く上がらんのです……」
朱棣は不満げに唇を尖らせるが、どこか誇らしげでもあった。
桂は筆を置き、ふっと微笑む。
「痛むか。それは結構だ。痛みは、生きている証だからな」
朱棣は眉を寄せる。
「……兄上の言葉は、いつも難しい」
しかしその声には、子どものような甘えが滲んでいる。
「なあ兄上。火真殿の厳しさ……時折怖くなる。けれど、火真殿は俺を見てくださってる気がする。兄上と同じ目で…」
桂は頷く。
「怖れを抱くのはいい。だが、その怖れの中に、信頼を見いだせるなら、それは本物だ」
朱棣はしばし黙り、やがてため息をついた。
「兄上は……俺に優しすぎる。俺がまだ小さい頃のまま、ずっと扱うのだな」
桂は目を細め、筆先を弄ぶ。
「お前がどう変わろうと、私にとっては弟だ」
朱棣の目が伏せられる。
「……兄上はずるいぞ」
だがその声は、満足げでもあった。
喋り疲れ、眠った朱棣に布団を掛け、部屋のろうそくを消した。蝋燭を吹き消すと、闇が全てを包む。
猫娘の無垢な誘い、火真の鋭い眼差し、朱棣の甘え。人は、誰かを甘やかし、誰かに甘える。理性は脆く、欲は深い。けれど、その危うい均衡の中にこそ、人間の尊さはあるのだ。
人生は短く、理性は薄氷。だが、それを踏みしめて歩む者こそ、人間の美しさを知る者なのである。
そして、その全てを受け止める覚悟を抱いて、桂は今夜もまた、静かに筆を走らせるのであった。