第3話 静水せいすい深く、熱情ねつじょう潜む

秋風あきかぜのきを渡り、書斎しょさいを叩く。桂はひとり筆を執り、紙面しめん黙々もくもくと文字を連ねていた。沈思黙考ちんしもっこうの姿勢は、りんとした水面のごとく乱れを見せぬ。だが、その内側に潜む熱は、誰に見せるものでもない。

静謐せいひつを破ったのは、いつもの猫娘であった。白磁はくじの肌、猫の耳をかんした娘は、無邪気むじゃきな笑みと共に、空気の隙間を縫うように桂へと近づく。

「桂さま〜♡」

その声は、春の陽に融ける雪のようにあまやかだ。無垢むくな微笑、しかしその身体は男の理性りせい破砕はさいする、あまりに危険な曲線きょくせんを隠さぬ。

「ここ、あたしの場所にしていいかニャ?」

そう言いながら、桂の膝元へすとんと腰を下ろす。天真爛漫てんしんらんまんとは、かくも罪深つみぶかいものか。細い腰、張り詰めた胸元、ちらりと覗く白肌。娘は己の肉体の魔力まりょくを意識していない。いや、意識していないがゆえに、なお一層の脅威きょういであった。

「……そこは、仕事の場だ。どきなさい」

声は低く抑えられている。しかしその胸中では、熱がじりじりと膨らみつつあった。

「いやニャ〜、ここは桂さまの匂いがして落ち着くニャア♡」

甘えた声に、桂の眉はかすかに寄る。視線を逸らそうとするも、視界の端には彼女の白肌が残像ざんぞうのように張り付いている。

(……これは試練しれんだ)

理性を己の城とする桂は、自らの内に巣食すく欲望よくぼうの形を知っていた。いや、知っていながらも抗えぬ、それが人間のごうというものだ。

女の身体は、ただの器ではない。揺れる尻、張り詰めた胸元、歩むたびに柔らかくたわう腰。男の目に映るそれは、単なる肉体ではなく、理性を試す刃であった。しかも、猫娘はそれを無自覚むじかくに振るう。

己が武器を知らずに振り回す者ほど、危うい存在はない。

(……わかっていないのか。いや、わざとなのか?)

桂の唇は固く結ばれ、汗がこめかみに滲む。視線はふと、彼女の花のような唇に落ちる。

(……やわらかそうだ)

一瞬の迷いが胸をき、桂ははっとして我に返る。

「……下がれ。今日は疲れた」

低い声は、裂帛れっぱくの気迫であった。娘は「にゃふっ」と声をあげ、しかしその瞳はどこか満足げに笑っていた。好きな男の理性が揺らいだ刹那せつなを、確かに見届けた笑み。

(……もしかして、効いてるのかニャン?)

猫娘の思惑おもわくを知らぬふりで、桂は拳を膝に当て、深く息を吐く。己が男であることを忘れたい——だが、忘れられぬ。夜の冷水は再び桂の肌を打ち、煩悩ぼんのうを沈める。

やがて、桂の元をたずねてきたのは、蒙古もうこ武将ぶしょう火里火真ほりほちんであった。

鋭い眼光がんこう苛烈かれつな気性をあわせ持つ男であり、桂と一度、拳を交えた縁もある。

火真は桂にれ込んでおり、その配下はいかきたいと願ったが、桂の一存いちぞん朱棣しゅていの教育係ににんじられている。火真の眼光は鋭く、言葉は乾いた風のように響いた。

「蒙古は、すでに終わりだ。部族は分裂ぶんれつし、もはや女真じょしんと同じだ」

火真の声には乾いた響きがあった。己が背負う民族の黄昏たそがれを、あくまで他人事のように淡々たんたんと語る。

「……ああ。私もそれを予見よけんし、高麗こうらい帰順きじゅんした」

桂の返事は短く、しかし言葉の奥に覚悟を滲ませる。

火真はひとつ笑い、杯を傾ける。

「して——貴殿の弟分、朱棣殿は貴殿が甘やかしたおかげで随分と腑抜ふぬけておるが」

桂は目を伏せる。

「……あの子は、生真面目きまじめなのだ。あなたの訓練で泣かされていると聞いた」

火真は杯を置き、声を潜める。

「泣くのは悪くない。泣いてなお立ち上がれるなら、それでいい。俺は素直に泣ける奴が好きだ」

視線が桂に向けられた。まるで、その言葉が桂にも向けられているように。桂は微かに頬を緩める。

「……あなたの言葉は荒削あらけずりだが、本質を突く。あの子には、あなたの厳しさが必要だ」

火真の目が笑う。

「だが、桂殿。貴殿の甘やかしも、あの子には必要だったと思うぞ。しかし、あの子の甘いもの好きは、貴殿のせいだ。甘いものばかり食わせやがって」

桂は小さく笑いを漏らす。

「……あれも、ひとつの癖だ。誰かに甘える癖。私が植え付けてしまったものだ」

火真は肩を揺らし、声を潜める。

「そうやって、無償むしょうの愛を分け与える貴殿自身も、誰かに甘えたいのではないか?」

桂は杯を持ち上げ、黙して答えず。長い沈黙が二人の間を覆う。だが、その沈黙にこそ、男たちの奇妙な共感きょうかんがあった。

やがて火真は腰を上げ、笑みをたたえて去る。

「俺は、あの弟を鍛え上げる。貴殿が甘やかす分、俺が叩き直す。——それが厳しくできぬ貴殿の望みでもあるだろう?」

桂は黙して頷いた。

そして夜更け、朱棣が「桂兄上〜!」と声を上げて書斎に現れる。無駄話むだばなしを携え、幼い日の笑みをまだ残す青年。桂の書斎は、彼にとって安息あんそくの隠れ家であった。

「兄上、火真殿にまた鍛えられました……腕が痛く上がらんのです……」

朱棣は不満げに唇を尖らせるが、どこかほこらしげでもあった。

桂は筆を置き、ふっと微笑む。

「痛むか。それは結構だ。痛みは、生きているあかしだからな」

朱棣は眉を寄せる。

「……兄上の言葉は、いつも難しい」

しかしその声には、子どものような甘えが滲んでいる。

「なあ兄上。火真殿の厳しさ……時折怖くなる。けれど、火真殿は俺を見てくださってる気がする。兄上と同じ目で…」

桂は頷く。

おそれを抱くのはいい。だが、その怖れの中に、信頼を見いだせるなら、それは本物だ」

朱棣はしばし黙り、やがてため息をついた。

「兄上は……俺に優しすぎる。俺がまだ小さい頃のまま、ずっと扱うのだな」

桂は目を細め、筆先をもてあそぶ。

「お前がどう変わろうと、私にとっては弟だ」

朱棣の目が伏せられる。

「……兄上はずるいぞ」

だがその声は、満足げでもあった。

喋り疲れ、眠った朱棣に布団を掛け、部屋のろうそくを消した。蝋燭ろうそくを吹き消すと、闇が全てを包む。

猫娘の無垢な誘い、火真の鋭い眼差し、朱棣の甘え。人は、誰かを甘やかし、誰かに甘える。理性は脆く、欲は深い。けれど、その危うい均衡きんこうの中にこそ、人間のとうとさはあるのだ。

人生は短く、理性は薄氷はくひょう。だが、それを踏みしめて歩む者こそ、人間の美しさを知る者なのである。

そして、その全てを受け止める覚悟を抱いて、桂は今夜もまた、静かに筆を走らせるのであった。