第2話 孤庭こてい、猫の影ゆらぐ

数日を経て、ちょうと呼ばれる猫めいた女、まるで性に従うがごとく、朝な夕なにけいの周囲を遊弋ゆうよくす。まるで野良の仔が、塀伝いに己が縄張りを確かめるようなものだ。気まぐれでいて、一途。奔放に見えて、やけに執着深い。 なるほど、これは困る。実に困る。 人間の心理とは奇妙なもので、長年慣れ親しんだ痛みを失うことを、かえって恐れるものである。けいもまた然り。女真じょしんの血ゆえに受けてきた蔑視は、もはや彼の一部と化していた。それが棘だと自覚しながらも、その棘を抜かれることへの不安が、彼の奥底に巣食っていたのだ。 「高麗こうらいの装いも好きだけど、なんといっても女真じょしんのいで立ちのけいさま、たまらんニャアにゃあ♡」 軽薄とも無垢ともつかぬ声音に、けいの顔がわずかに綻ぶ。この一言が、彼の胸中をざわつかせた。 高麗こうらいの地にあって、けいは長く「完顔阿骨打わんやんあぐだ」と呼ばれてきた。無論、それは蔑称である。完顔阿骨打わんやんあぐだとは、かつてきんを興した女真じょしんの英雄。その名を冠されることは、一見すれば栄誉にも似るが、実際には異類の象徴として揶揄されたのだ。栄光とは、時に最も残酷な嘲笑の衣をまとう。けいはその名の裏に、幾度も唇を噛んだ。 「功あらば人にあらず。失すれば異邦の徒」 それが、彼の歩んできた道であった。なまじ手柄を立てれば疎まれ、失策すれば血筋を責められる。朝鮮半島ちょうせんはんとうの南北を縦断するたび、その痛みは増していった。 渡高麗とこうらいの折、祖父の兄―これまた高麗こうらいに仕えた将軍であった―がこう言った。 「混血は苦労するぞ」 そのときは意味が分からなかった。が、今となっては骨身に沁みる。忠義、勤王、戦功―何を尽くしても「外の者」として見られるその冷ややかさが、けいの中に小さな棘を残し、それはやがて信念すらも突き刺す鉄片と化していた。 だが― 「女真族じょしんぞくの格好したけいさまが好きニャアにゃあ〜♡」 ちょうは、あっけらかんと、無垢な調子でそう言うのだ。その瞬間である。けいの心に、何かが起こった。長年胸に刺さっていた棘が、まるで春の陽光に融けた氷のように、するりと溶けていくのを感じたのだ。あまりにも自然に、あまりにも容易に。 (なんということだ……) けいは内心で呟いた。十余年間、己を苛み続けてきた痛みが、この女の一言でかくも簡単に消え去るとは。人は己の痛みに慣れ親しむものだが、同時にその痛みから解放されることを、心の奥底で渇望しているものである。けいもまた例外ではなかった。ちょうの無垢な賞賛は、彼が望んでいながら決して得られずにいたものだったのだ。 しかし―人間とは実に複雑な生き物で、求めていたものを得ると、今度はそれを疑うようになる。 (この女、なぜこれほどまでに私を慕うのか。何か企みがあってのことだろうか) けいの周囲をくるくると舞い、まるで尾を持っていたならば盛大に振っていたであろう勢いで、まとわりつくちょうを見つめながら、彼は己の猜疑心に苛まれた。けいは書物を開いたまま、無関心の仮面を崩さぬ。が、その気配、その香、その声、その距離——すべてが、彼の内面に波を呼び起こす。 「……また来たか。今日は何の用だ」 「ん〜、けいさまの顔が見たかっただけニャンにゃん♡」 ふわりと細い腕が、背後から絡みつく。ちょうの小柄な体が、ぴたりとけいの背に張りつく。 「背の高い人、好きニャアにゃあ……落ち着くニャンにゃん……」 花の香とも、果実の香ともつかぬ微かな匂いが、鼻先をかすめる。けいの眉がわずかに震えた。 「……そうか」 その声は、静謐せいひつである。だがその内奥では、何かが泡立っている。 (……柔らかく、大きな胸が、私の背に……ああ、これは、駄目だ) 視線を落とすと、布地が限界まで張りつめた胸元が目に入る。 (……っ) 喉が、ごくりと鳴った。それは意志ではない。生理である。理性が働くより先に、思考のどこかで、甘やかな妄念が芽吹いている。 (このまま押し倒したら、どんな顔をするのか…まず帯を解き…馬鹿が、何を考えている?) 「けいさまぁ〜? ぼーっとしとるニャンにゃん。お茶、入れるニャにゃ?」 「あ、ああ……ありがたく頂く。助かる」 その笑顔。あまりに無垢。あまりに無防備。己がどれほど「危険」な存在であるか、彼女は露ほども知らぬ。だからこそ、始末が悪い。けいは思う。 (落ち着け。私は高麗こうらいの将軍だ。将軍というものは、かくあるべし) だが、将軍である以前に一個の男であることは、否定しようもない。内なる獣性と、武人の倫理。その綱引きに、今日も心は引き裂かれる。 (……今夜も、冷水をかぶらねばなるまい) けいは、深く息を吐いた。 ちょうは、かつてげんの都に住んでいた。父は武将・張玉ちょうぎょく。母は側女であり、奇皇后きこうごうに仕えた女であった。ちょう自身も、幼い頃より後宮で宮女見習いとして育った。武術の才に恵まれ、なかでも薙刀なぎなたの扱いは並の男よりも上手であった。 彼女はかつて、奇皇后きこうごうに問うたことがある。 「自分は男に生まれたかった。将軍になりたかった」と。 奇皇后きこうごうは、扇を閉じてちょうの顔をじっと見つめた。 「お前は何を勘違いしているのか。男になりたいと?」 「は、はい……私は武に長けております。きっと男であれば、立派な将軍に……」 皇后こうごうは静かに首を振った。 「愚かな子よ。男の人生がどれほど過酷か、お前は知らぬ」 「過酷、ですか?」 「男は何も持っていない。生まれた瞬間から、すべてを自力で勝ち取らねばならぬ。愛も、地位も、富も、名声も——何一つとして、与えられるものはない」 皇后こうごうの声は、諭すように優しく、しかし厳しい真実を孕んでいた。 「男は弱ければ死ぬ。それだけだ。情けも、同情も、救いの手も差し伸べられることはない。なぜなら、男とはそういうものだからだ」 「で、では……」 「女は違う」皇后こうごうは微笑んだ。「女は生まれながらにして、すべてを持っている。愛される力、守られる権利、慈しまれる資格——それらはすべて、お前の生来の武器だ」 ちょうは困惑した。「で、でも、戦場で剣を振るい、敵を討ち取ることこそが……」 「馬鹿な」皇后こうごうの声が鋭くなった。「男と同じ土俵で戦って、何の意味がある? お前が剣で一人の敵を倒したとしよう。だが、お前の微笑み一つで、百人の男を虜にできるではないか」 「そ、それは……」 「勝ち負けという概念そのものが、男の作った幻想だ。女にとって、勝ち負けなど存在せぬ。なぜなら、女は戦わずとも既に勝っているからだ」 皇后こうごうは立ち上がり、窓辺に向かった。 「お前は武を捨てよ。剣ではなく、己の女性性を武器とせよ。それこそが、天が女に与えた最強の力なのだ」 「女性性……ですか」 「そうだ。愛らしさ、優しさ、弱さでさえも——それらはすべて、男を征服する武器となる。剣では一人しか倒せぬが、女の魅力は千人を従わせる」 皇后こうごうは振り返り、ちょうに向かって言った。 「女の全盛期は長くはない。その間に、真に価値ある男を捕まえることだ。武芸で身を立てようなどと、男の真似をしている暇はない」 ちょうは、深く頭を下げた。 「……分かりました。武を、捨てます」 その日を境に、ちょう薙刀なぎなたを手に取ることをやめた。代わりに、己の愛らしさを磨くことに専念した。猫のような仕草、無邪気な笑顔、男心をくすぐる甘え方——それらはすべて、奇皇后きこうごうの教えに従った結果であった。 そして– 彼女が朱棣しゅていと出会ったのも、げんの都においてであった。当時の朱棣しゅていはまだ童顔の少年。燕王えんおうではなく、ただの皇子に過ぎず、己の居場所を得るため、敵地に赴いては密かに父のための情報を集めていた。いわば小さな間諜かんちょうである。ちょうにとって、朱棣しゅていはその頃から「弟のような存在」であった。今もその感覚は変わらない。朱棣しゅていがどれほど好意を寄せてきても、彼女にとってはあくまで「可愛い弟」なのだ。 ちょうは一切、悪びれぬ。むしろ、戯れることに陶然としている。宮女に「何か良いことでも?」と訊かれれば、 「秘密ニャンにゃん」 と小声で笑う。笑うその顔がまた、絵のように可憐で、けいの理性を殺しにかかる。 その最中、燕王えんおう朱棣しゅていが顔を出す。ちょうはとっさに腹痛を装って追い返した。なぜ腹痛なのか、自分でも分からない。ただ、それで朱棣しゅていが下がったのだから、結果オーライだ。朱棣しゅていちょうに対して異様に甘い。いや、愚かしいほどに盲目的だ。まるでガラス細工を扱うかのように慎重で、触れることすらおずおずとする。彼は、ちょうの心がすでに別の男へと傾き始めていることに、まだ気づいていない。ちょうにとって朱棣しゅていは今も昔も「弟のような存在」でしかないことに、彼は気づいていないのである。 夜。 けいが冷水をかぶり終えたその部屋に、朱棣しゅていが訪れる。 「おや、けい兄上、こんな日に冷水浴とは……無茶されますな」 「少し、落ち着いて考えたかっただけだ」 「なるほど……まあ、兄上、聞いてくださいよ……」 朱棣しゅていは愚痴を垂れ流す。政務、兵の士気、宮廷のしがらみ。話は途切れず、やがて畳の上で眠りこけた。けいは、静かに布団をかけてやる。 朱棣しゅていにとって、けいは兄であり、父であり、剣の師であり、何よりも「心の根」であった。けいもまた、朱棣しゅていを愛していた。だが、過ぎた甘やかしが彼を「半端な男」に育ててしまった。そのことを、彼はずっと悔いている。己に、人を律する厳しさがなかった。だからこそ、朱棣しゅていと軍の指導をモンゴルの将軍に任せざるを得なかったのだ。 けいは、優しすぎた。だが―優しすぎる者にだけ見える風景が、確かにある。それは、朱棣しゅていにも、ちょうにも、まだ見えていない孤独の景色であった。