第1話 孤月に戯る猫
洪武十四年、北平。明朝の威光は天を覆い、燕王朱棣の府は帝都に次ぐ絢爛を誇った。朱塗りの柱、絹の帳、黄金の燭台ーの華やぎは地上の龍宮のごとくであった。だが、この栄華の裏に、ひそやかに息づく一人の男がいた。
高麗の雷霆と謳われた武将、李成桂。戦場を疾駆した彼は、今、燕王府の片隅に客将として身を寄せ、深い疲労に沈む。四十三歳の顔には、剣戟の嵐を潜り抜けた静謐が刻まれ、庭の紅葉を眺める姿は、世を棄てた仙人のごとく枯淡であった。
桂―以降、彼をこう呼ぼう―の魂は、冬の湖面のように波一つ立てず、底知れぬ孤高を湛えていた。
夕陽が回廊を斜めに刺し、朱の柱を血のごとく染める頃、桂は黙然と座す。宮廷の謀略と政争は、彼には遠い雑音に過ぎぬ。この静寂こそ、彼の心を繋ぎ止める砦だ。戦場の血と裏切り、忠義の軛に擦り切れた魂を、孤独だけが癒す。だが、静寂を愛する男の前に、騒々しい闖入者が現れる。しかも、それが女ともなれば、事は厄介だ。
「ふぁっ、あのお方はどなたかしらニャ?」
甘く、子猫がじゃれるような声が響く。燕王の寵姫、張だ。二十二歳、絶世の美女と謳われるが、本人はその顔にまるで無自覚。豊満な肉体は男の視線を絡め取るが、彼女はそれにも無頓着で、ただ無垢に振る舞う。甘く、子猫がじゃれるような声が響く。
なぜか語尾に「ニャ」を付けるが、その理由は誰も知らぬし、誰も問わぬ。
その無神経なまでの自由さが、宮廷の男たちを惑わす妖怪と化していた。燕王朱棣の正妃たる地位にありながら、彼女はまるで花から花へ移動する蝶のごとく、しがらみを嘲笑う。
桂の名も知らず、ただその静かな佇まいに好奇心をくすぐられたらしい。朝鮮半島の政情? 彼女の頭には毛ほども入らぬ。入っても、すぐに忘れる。
「お茶をお持ちしましたニャ〜」
張は侍女のふりをし茶器を手に近づき、わざと手を滑らせ、桂の袖に茶をこぼす。見事な「計算された不手際」だ。三流芝居の女優も顔負けの演技で、目を丸くして叫ぶ。
「キャッ、ごめんなさいニャ〜ン!」
桂は眉一つ動かさず、静かに立つ。古木が風に揺れぬがごとく、泰然自若。その眼差しは、遠い山脈を眺める隠者のようだ。
「気にするな。怪我はないか」
その声に怒りはなく、相手を気遣う柔らかさがある。彼は自らの袖で張の手を拭い、かすかに笑む。その笑みは春の微風のごとく穏やかで、哀愁を帯びていた。張の胸に、湖面に石を投げ込まれたような波が立つ。こんな優しさを見せられたら、どんな女も心が揺れる。
ましてや張、理性より本能で突っ走る女だ。彼女の健康的かつ豊満な肢体は、無自覚に桂の視線を誘うが、彼女はそんなことに気づかぬ。ただ、無垢に、しかし危険に、男を惑わす。
(なんて素敵な方なのニャ! こりゃ運命だニャ〜!)
張の心は、猫が毛玉を追うように騒がしく躍る。燕王朱棣は立派な男だ。彼女を寵愛し、地位も与える。
だが、桂の無垢な優しさは、彼女の心の奥を揺さぶった。得られぬものに心を奪われる、愚かな人間の性だ。張の奔放さは春の嵐のごとく、制御不能で全てを巻き込む。対して桂の孤高は、凍てついた岩のごとく、動かず、ただ耐える。この対極が、薄暮の燕王府で交錯した。
その夜、張は桂の後を追う。書斎に灯りが揺れる。好奇心に駆られ、彼女は鼠を狙う猫のごとく扉の隙間から覗く。そこに、驚く光景があった。
昼間の武将とは別人の男がいた。豪奢な毛皮を纏い、黒髪を精緻に編み上げた姿は、女真族の装い。だが、その目元は桂その人だ。孤高の将軍が、異邦の誇りを纏っていた。
「だ……誰なのニャ?」
声が漏れた張に、桂は振り返る。深い溜息とともに言う。
「驚かせたな。これが私の本当の姿だ」
その声に、諦念と誇りが交錯する。「私は高麗の将軍だが、モンゴル軍閥でもあり女真族の末裔でもある。」
この告白は、桂にとって重い十字架だ。高麗でも、明でも、彼は「余所者」として偏見と孤独を背負った。その痛みを胸に封じ、沈黙で覆ってきた。
戦場の栄光も、客将の敬意も、彼の心の深淵を埋めぬ。彼の孤高は、雪山の頂のごとく、冷たく、誰も寄せ付けない。だが、張の反応は予想を裏切る。
「…素敵ニャ!複雑な出自がカッコいいニャア~♪」
屈託のない笑顔。彼女の無自覚な笑顔と美貌が、書斎の薄暗がりでなお輝く。彼女の奔放さは、桂の重荷を子どもの悪戯のごとく軽くあしらう。深刻な男の前に、こんな無神経な女が現れるとは!
「お前は……猫のようだな」
桂は苦笑し、張の額を撫でる。父が子を慈しむような仕草だが、すぐ手を引く。己の心の揺れを封じるように。
(危険だ…私が何をしでかすかわからん)
桂の内心は嵐だ。この奔放な女が、彼の平静を乱す。政治、道徳、朱棣への義理ー鉄の鎖が彼を縛る。彼の孤高は、凍てついた湖のごとく、波を寄せ付けぬ。だが、張の無自覚な魅力は、その湖面に石を投げ込む。彼女の心は決まっていた。
(この人を、振り向かせたいニャア!)
燕王府に波紋が生じる。張の桂への想いは膨らみ、朱棣の心に影を落とす。彼は桂を兄と慕うが、愛する女の心が別の男に向かうのを薄々感じる。愛と嫉妬と義理が絡み合い、誰もが心に嘘をつく。桂の孤高は孤島のごとく、張の奔放さは風に舞う花びらのごとく。
明朝の壮麗な舞台で、一つの恋心が嵐を呼ぶ。孤高の将軍、奔放な美女、苦悩する若き王―三者の魂が交錯する物語の幕が、薄暮の燕王府に上がった。
その先には、悲劇か喜劇か、誰も知らぬ。